ひとくち法話

ひとくち法話138~141話 ―迷信―

第138話 迷信(めいしん)を考える

 「いわしの頭も信心から」という諺(ことわざ)があります。節分の夜に、いわしの頭を柊の枝にさして、門前に置くと、悪鬼(あっき)が退散するという風 習があったことから、言われた諺です。鰯の頭のようにつまらぬものでも、信仰する人には、霊験(れいけん)を感ずるようになるというのです。これは、自身 の心が迷っていることに気づかぬのが原因です。最近では、テレビで某女が「遺影は、家にかざるべからず」とか「墓石に家紋を掘ると、家運が傾く」とか言っ たので、多くの人から真実かどうかという相談がありました。こちらに確かな判断力がないようなくだらない話にも迷ってしまうものです。
 親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、当時の人々が、多くの迷信にしばられて生活しているのをなげかれて、一首の和讃で、それをズバリと切って捨てられました。
  かなしきかなや道俗(どうぞく)の  良時吉日(りょうじつきちにち)えらばしめ
  天神地祇(てんじんじぎ)をあがめつつ  卜占祭祀(ぼくぜいさいし)をつとめとす   『愚禿悲歎述懐和讃(ぐとくひたんじっかいわさん)』第八首
という和讃です。
 聖人が亡くなってからすでに750年が経ちますが、これらの迷信は、科学の時代といわれる今日でも根強く、生活の中に残っています。私たち真宗の念仏者は、自らの生活を振り返って、このような迷信にこだわらない人生道を歩みたいものです。
 次号から三回に分けて、実例を挙げて、具体的に説明します。

ひとくち法話No138 ―迷信1― より

第139話 良時吉日(りょうじきつじつ)えらばしめ

 この見出しの言葉は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)が晩年厳しく自己告白されました『愚禿悲歎述懐和讃(ぐとくひたんじっかいわさん)』の一首に依るものです。
  悲しきかなや道俗(どうぞく)の  良時吉日(りょうじきつじつ)えらばしめ
  天神地祇(てんじんじぎ)をあがめつつ  卜占祭祀(ぼくぜいさいし)をつとめとす   (第八首)
 ほんとうに悲しいことだ。僧侶(そうりょ)も俗人(ぞくじん)も良時吉日を選んでいる。良時吉日に支配されているではないか。という聖人の悲痛な受け止めの言葉です。
 私達は毎日が好日でありたいと願っています。もちろん雨や嵐の日もありますが、これは自然現象なので致し方ありません。
 ここで言う良時吉日とは、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口という六曜思想(ろくようしそう)にもとづくものです。多くの人々が日のよしあしにこだわって生きていることに対する、聖人のお歎きであります。
  六曜思想は元来中国の陰陽道(おんみょうどう)からきたもので、戦いや賭博などで吉凶を占った俗信であります。大安は良い日だから結婚式や退院に選んだ り、友引は友を引くから葬儀は避ける、仏滅も嫌われているという現実がありはしないか。友引は「共引き」引き分けということであったのを後で「友引」に替 えたということで、単なる語呂合わせに過ぎません。
 仏法とは関係のない日のよしあしを言い合っているのは、悲しいことです。このご和讃は700年も前のことですが、現代でも変わりがないのは誠になげかわしいかぎりです。
 私共は、迷信・俗信に振り回されることがないよう自他共に心掛けましょう。

ひとくち法話No139 ―迷信2― より

第140話 天神地祇(てんじんじぎ)をあがめつつ

 聖人の「愚禿悲歎述懐和讃(ぐとうひたんじっかいわさん)」の中の「天神地祇(てんじんじぎ)をあがめつつ」という句について考えてみました。
 天神地祇とは、天の神と地の神をあわせて、あらゆる神々のことを言います。
 親鸞聖人(しんらんしょうにん)の時代にも、仏教を信じながら病気の時は神を頼りに命乞(いのちごい)いの祈祷(きとう)をしてもらったり、干ばつのときは雨乞いをしたり、種々の祈祷が行われておりました。
 今の時代も、神社への初詣(はつもうで)や、合格祈願(ごうかくきがん)、交通安全の祈願、厄年の厄除け、家を建てる時の地鎮祭(じちんさい)など、天地の神々をあがめて、その霊験(れいげん)を頼りにする場合が数多くあります。
 よく考えてみますと、自分の欲望を満たすためであったり、不幸からのがれたいという自分勝手な都合から神々を頼ることが多いのではないでしょうか。このような人々の心理は、800年前も現在も変わりはありません。
  かなしきかなやこのごろの  和国(わこく)の道俗(どうぞく)みなともに
  仏教(ぶっきょう)の威儀(いぎ)をこととして  天地(てんち)の鬼神(きじん)を尊敬(そんきょう)す   『愚禿悲歎述懐和讃』第十一首
  親鸞聖人は、仏教徒でありながらこのような行いをして心の安堵(あんど)を求めようとする人々をこの上なく悲しまれて、もっと内面的な真実の教えを信じて 生きてほしいと望まれました。天神地祇に頼らず、お念仏を通じて真実の自分に目覚める生き方を忘れずに毎日を過ごしたいものです。

ひとくち法話No140 ―迷信3― より

第141話 卜占祭祀(ぼくぜいさいし)をつとめとす

 今回は、
  かなしきかなや道俗(どうぞく)の  良時吉日(りょうじつきちにち)えらばしめ
  天神地祇(てんじんじぎ)をあがめつつ  卜占祭祀(ぼくぜいさいし)をつとめとす   『愚禿悲歎述懐和讃(ぐとくひたんじっかいわさん)』第八首
  親鸞聖人は、この「卜占祭祀」の左訓(さくん)に「うらない・はらひ・まつり」とされています。卜は筮竹(ぜいちく)などでうらなうこと。占とは、家相や 人相をうらなうことで、ものの吉凶(きっきょう)をうらなうことを卜占といいます。祭も祀もまつりということで、天神を祀り地祇を祭って福をもとめ災いを 除こうとすることです。聖人の頃、社寺の僧や神官がこのような除災求福(じょさいぐふく)の祓(はら)いを専(もっぱ)らの勤めとして、人々の本当の悟り や救いをおざなりにしていたことへの嘆きのお言葉であります。
 しかし、これは昔の問題ではなくて、現代においても嘆かわしい現実であります。テレビや週刊誌・新聞に至るまで、今日の運勢とか何々占いとかをもてはやし、結婚や引っ越しまでもを占いに頼る人も多いようです。
 何か目に見えない力によって自分が支えられ護られていると考えることは大切なのですが、自己責任から逃避して、全てを運命のように考えることは大きな間違いです。
 今の自分に賜(たまわ)っている命の大切さ有り難さに目覚め気づいて、今の私を精一杯に生きる他に近道も逃げ道もありません。そこにはすでに阿弥陀さまの願いが私を護って下さっているのです。お念仏の日暮しに心を定めることが真実の幸せであると聖人は示されています。
  弥陀大悲(みだだいひ)の誓願(せいがん)を  ふかく信ぜんひとはみな
  ねてもさめてもへだてなく  南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)をとなふべし  『正像末法和讃』第五十三首

ひとくち法話No141 ―迷信4― より

第142話 往生(おうじょう)

 「往生(おうじょう)」とは、阿弥陀(あみだ)様の本願力(ほんがんりき)に乗(じょう)じて、凡夫(ぼんぶ)である私が極楽浄土(ごくらくじょうど) に生まれ往(ゆ)くことであります。昔からお説教などで「死ぬと思うな生まれると思え」と説かれてきました。お浄土に生まれるというのは、阿弥陀様と同じ 大きな悟(さと)りを得て仏となることです。
 親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、阿弥陀様の誓(ちか)われた念仏往生(ねんぶつおうじょう)の 願(がん)(第十八順)によって往生することを真宗(しんしゅう)とされています。それも、死んだ後に往生が決まるのではなく、煩悩具足(ぼんのうぐそ く)の凡夫が阿弥陀様のご本願に目覚め気づかせていただいた時に、即ち真実信心(しんじつしんじん)をいただいた時、煩悩のままの私の往生成仏(おうじょ うじょうぶつ)が決定(けつじょう)すると説かれています。それを「不退(ふたい)の位(くらい)」とも「等正覚(とうしょうがく)」とも説かれて、弥勒 菩薩(みろくぼさつ)が必ず成仏するのが定まっているのと同じく、この世において必ず成仏することが決定すると説かれています。これを「現生入正定聚(げ んしょうにゅうしょうじょうじゅ)」(この世で正く成仏の定まった集まりに入る)として、親鸞聖人の教えの要となっています。 ただ一般には「往生」を 困って動きのとれないこととして使われています。これは「平家(へいけ)物語」や歌舞伎で有名な弁慶の最後の場面で、弁慶が全身に矢を受けて、眼を見開い て立ったまま往生し、敵が姿に一歩も動くことが出来なかったことから来ています。往生が死んで浄土に生まれることから、弁慶の死を意味するのですが、動き がとれないとか、困惑(こんわく)するというのは派生(はせい)的な意味で、「往生」の正しい意味ではありません。
 この煩悩のままの私が、浄土に生まれて仏となるというのは、これにまさる大きな感動はありません。
  念仏往生の願により  等正覚にいたる人   すなわち弥勒(みろく)のおなじくて  大般涅槃(だいはつねはん)をさとるべし   『正像末法和讃』第二十六首

ひとくち法話No142 ―感動1 ― より